◆◆◆◆音楽の記(一)
Music Essay no.1. (200306, 200403revised)
音楽批評・橋本努
このページは、私の趣味で音楽作品を紹介していくというコーナーです。お気に入りの音楽をランダムに批評していきます。皆様からいろいろなコメントをお寄せいただけると嬉しいです。
[0]
Son Collage(ソン・コラージュ)
八本のカセットテープ
未発売
(茂木欣一(現在、東京スカ・パラダイス・オーケストラのドラマー)と橋本努の二人のバンド、「ソン・コラージュ」のオリジナル曲集。僕たちが中学生のときから大学生になるまで、約四年間の演奏を録音したカセットテープ(全八本)である。先日(2003.05.)、茂木くんがスカパラのライブの後に僕の家に泊まりにきて、もう20年前になる二人の演奏を久々に聴いた。いろいろな思い出が蘇ってきて、二人で笑い転げて、そして涙が出てきた。15歳のときに二人でバンドを始めて、あの頃はとにかくのめり込んだ。どんどん作曲して、どんどん演奏して、そしてどんどん録音していたのだった。今度いつか、ソン・コラージュの音楽についてもっと詳しく書きとめておきたい。いずれ二人でまた演奏する日が来るだろう。)
[1]
Gidon Kremer
Tracing Astor: Gidon
Kremer plays Astor Piazzolla
Nonesuch 2001
ヴァイオリニスト、クレメールの最高傑作ではないだろうか。アストール・ピアツォラの音楽はアコーディオンの音色を原音とするが、クレメールはこれを弦楽三重奏で表現する。その内容は、ピアツォラのイメージからはどこまでも遠く、しかし存在の運命的表現として、どこまでも深い。まるで現世を拒否した修道僧が、徹底して現世的な情熱の世界に、黒いオルギアを注ぎ込むかのような表現だ。あるいは暗い裏道の、ほのかな電燈によって地面に映し出された人の影。その影の中に人生のすべてを表現しようとすれば、それはいかにして可能だろうか。そういった問いが生まれてくるような音楽である。研ぎ澄まされた精神、強度の緊張感、飛び散る線の絡み合い、深い闇に細く鋭くきらめくような空間。私のお気に入りの一枚で、そのリズムはすでに身体に染みついてしまった。
[2]
武満徹
風の馬 武満徹作品集
ビクター 1997
武満徹の合唱曲がすばらしい。無垢な情緒に心が洗われるような心地よさを感じる。ときどき私は「小さな空」という曲を、無意識のうちに口ずさんでいることがある。「青空みたら/綿のような雲が/悲しみをのせて/飛んでいった/いたずらが過ぎて/叱られて泣いた/こどもの頃を憶いだした」(武満徹の作詞)。嗚呼! この音楽の中に、どっぷりと溶けてしまいたくなる。自ずと身体が漲ってきて、なんだか、ここから「帰りたくない」という強情な姿勢になってしまうのである。
[3]
Nguyen Le
Tales from Vietnam
World Jazz 1996
ベトナム文化における一つの記念碑的作品ではないだろうか。民俗音楽やジャズといった領域を超えて、音楽そのものの最高の到達点でさえあるだろう。ベトナムの民俗音楽と昔話を素材に、ジャズ・ギターリストNguyen Leが美しい世界を創造する。民族のナチオを歌うヴォーカル、疾走するギター、ベトナム独特の音階。とにかく演奏者たちの思い入れと意気込みがあって、しかもドライブに満ちた音楽の喜びがある。感激するとはこのことであろう。手放しで絶賛したい一枚だ。
[4]
The Lark Quartet
Aaron Jay Kernis, String Quartet 1-2
Arabesque Recordings 1999
私が最も気に入っている室内楽の一つ。大量の桜の花が怒涛のごとく飛び散るように、弦楽器の複雑な絡み合いが空間を埋め尽くす。旋律は、とくに印象深いというわけではないが、植物たちの春の喜びが、一つの美的世界へと結実している。その表現は圧倒的に耽美的で、植物たちの乱舞する空間の中に溶解してしまいそう。ラーク・カルテットの演奏は、このアルバムに限らずどれも素晴らしいので、いずれまた紹介したい。
[5]
山下洋輔(Yosuke Yamashita)
SA KU RA
Polydor, Verve 1990
「さくら」「雨降り」「笹の葉」など、日本の民謡を素材にしつつ、現代のジャズを刷新した記念すべき作品である。私は大学生のときにこれを聴いて、そのあまりの衝撃に眠れなくなったことを思い出す。音楽表現の新しさ、演奏の緊張感としなやかさ、アヴァンギャルドの精神、郷愁あふれる旋律、テクニックとコラボレーションの絶妙さなど、あらゆる点で冒険的であり、しかも完成度の高い作品だ。日本文化なるもののイメージを新ためて表現し、現代の感性をどこまでも先へ連れて行こうとする。
[6]
Victor Wooten
A Show of Hands
Compass Records 1996
ウッテンの最高傑作。ここにはベーシストがなし得るかぎりの音楽表現が追求されているだけでなく、音楽家としての人生を賭けた、「これが音楽だ」「これが人生だ」と言える何かがある。チョッパー・ベースの超絶技巧はもとより、そのグルーヴィーなリズムの中にゆたかな叙情性が光る。都会の夕日が育む感性というべきか、情動が込み上げてくるような旋律が多く、自然とからだに染み込んでくる。都会にたゆたう光と、現存在の存在論が一体化したようなサウンドだ。なおウッテンは、この他のアルバムではロックの音楽を仕事としてこなしているように感じられるのだが、この作品は純粋に芸術的な、珠玉のアルバムだ。生きることの素晴らしさが伝わってくる。
[7]
Nadja Salerno-Sonnenberg (v), Sergio and Odair Assad (g)
Nadja Salerno-Sonnenberg Sergio and Odair
Assad
Nonesuch 1999
ソネンバークの女性的でしかも厳しく力強いヴァイオリンに、アサド兄弟の超絶なクラシック・ギターが加わって、まるで不可能な美的世界が現実となったようだ。ギターの繊細なコンビネーションだけでも最高の水準にあるのだが、これに加えて、ソネンバークの大胆かつ繊細なヴァイオリンがしっくりと噛み合う。曲の選択や編曲もオリジナリティに満ちており、圧倒的な印象を与える。なおゾネンバークもアサド兄弟もそれぞれ、これ以前に出したアルバムはちょっと物足りなく聞こえてしまう。それほどにこのアルバムには、演奏者たちの思いが込められている。都市の空気が人間の精神を気高いものにする。晩秋の緊張感を表現してみせたこのアルバムは、ニューヨークという都市が可能にした豊饒な収穫だ。
[8]
John McLaughlin Trio
Que Alegria
Polydor France 1992
私にとって最も感性に響く一枚であるかもしれない。あまりにも個人的かつストレートに響いてくるので、これを表現するための適切な言葉というものを失ってしまう。ジャズとインド音楽の緊張関係の中で腕を磨いてきたジョン・マクラフリン(g)は、このアルバムではクラシック・ギターを用いながら、そこにmidi音源を加えて幻想的な音色を奏でている。フラットレス・ベースや多様なドラム音、例えばタブラなどが効果的に用いられ、知的に複雑なサウンドが、四方八方に炸裂するようだ。フュージョン系、ジャズ系、インド系の音楽が融合されながら、しかし徹底してパーソナルな感性に触れる珠玉の一枚。
[9]
Steve Coleman and Five Elements
Rhythm People (The
Reconstruction of Creative Black Civilization)
BMG novus 1990
サブタイトルにもあるように、これは黒人文明の創造性を「格段に」高めた記念すべきアルバムだ。ジャズ音楽史上、驚異の達成ではないだろうか。私が最初にこれを聴いたときは、何が展開しているのだかよく分からないという事態に、スリルと興奮と、そして大いなる予感を感じた。あまりにも高度な緊張感があって、しかも次々と新しいテーマが繰り広げられるので、私はこの演奏に追いつくために、何度も聴いて、それでいまだに相当な時間を費やしている。ドラムやベースを含めて、すべて変拍子。しかもどの楽器も基礎となるリズムを反復するということがなく、つねに新たなコンビネーションへと向かって、互いに自己主張を繰り広げていく。いったいどうしてこんな演奏が可能になったのか!
[10]
Bobby McFerrin
Spontaneous Inventions
Blue Note 1986
ヴォーカル表現の可能性を斬新に切り開いた天才、ボビー・マクファリンの最高傑作である。さまざまな楽器音をヴォーカルで表現しつつ、超低音から超高音までの広域の音声を自由に操るボビー。ワイルドで神聖な、しかも遊び心にあふれる独創的な芸術の達成だ。ボビー一人の舞台のほか、例えば、ウェーン・ショーターのソプラノ・サックスとのデュオでは、ボビーはヴォーカルでベース音を表現するだけでなく、ソプラノ・サックスの音域でもショーターと掛け合っている。音楽がなしうる最高のコミュニケーションではないか。なお、ボビーの他のアルバムは、商業的なニーズに応じたポップス的なものも多く、ときに幻滅させられることもある。しかしこのアルバムでは、彼自身の音楽が徹底的に追求されている。音楽の喜びとは、まさにこの一枚だ。
[11]
Alban Berg Quartet
Bartok, String Quartets Nos.1-6 (disc 1-3)
Toshiba EMI 1988
おそらく私が最も聴きこんできたアルバムではないだろうか。当時の雑誌「FM fan」の新年号に、昨年の音楽を振り返るというかたちで簡単な紹介が載っていたので、さっそくこのCDを買って聴き始めた。四重奏の練り上げられた上質の演奏。これによってバルトークの世界は、いっそう神秘的なものになってしまったようだ。この深刻な音楽に、私はなんども向き合うことを余儀なくされてきた。アルバン・ベルクの演奏を聴くことは、私にとって好みの問題ではなく、否応なく自身を試されるような、ある種の強迫観念、義務感、あるいは、悲観的な運命に落ちていく中でパッシオ(受苦の精神性)を試されるような時である。研ぎ澄まされた演奏に集中して耳を傾けるに値する演奏(全三枚)だ。
[12]
Photek
Form & Function
Science/Virgin 1998
テクノ系、ダンス系のなかでも、異彩を放つ高貴なサウンド。超低音のドラムンベースというジャンルのなかでも、孤高のカリスマといわれるフォーテック、そのインディーズ時代のレアトラックを集めた作品である。いやこれは、驚きのサウンド、これ以上はありえないという完成度を示している。一曲目の「七人の侍」からして、すべての曲が疾走感あふれる珠玉の作品として仕上げられており、効果音の挟み方、シンバル系の高音の使い方、アンビエントな音楽にダンス系テクノ音楽を混ぜるという発想、複雑で予期を裏切る展開、などなど、ため息をつくほど感嘆してしまう。このアルバムには、自らのサウンドの完成度を高めることへの執念深さを感じる。絶賛すべき達成だ。
[13]
Miles Davis
The Complete Live at the
Plugged Nickel (4 set)
Sony/Columbia 1995
「マイルス・デイヴィスのアルバムの中でどれが一番好きか」と言われれば、私はやはり、プラグドニッケルでのライブを挙げたい。この演奏は1965年に収録されたものだが、1995年になってはじめて発売されている。ということは、これまでほとんど聴かれてこなかったのであろう。しかしこれが最高であるのは、マイルスがいわゆる商業ベースでのニーズとは関係なく、自らの音楽を徹底的に追求するという姿勢でライブに臨んでいるからだ。驚くほどの緊張感、徹底した演奏、重厚なサウンド。あらゆる点で完璧である。音源の再生処理もすぐれている。まるで当時の緊迫した空気が伝わってくるようだ。このアルバムは大量のCDセットなので圧倒されてしまうが、ハイライト版も発売されている。「これを聴かずして死ねるか!」とか「これだけ聴けばよい!」という言葉がよく似合うような、ジャズ・ファン必聴のサウンドである。
[14]
山下和仁
Kazuhito Yamashita Plays J.S. Bach (5 set)
Nippon Crown 1992
記念すべき現代の金字塔であろう。山下仁のギター独奏による、バッハ・セット全五巻である。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲」「無伴奏チェロ組曲全曲」「リュート組曲」を収録する。これだけの演奏を完成させるためには、いったいどれほどの情熱と執念が必要であったのだろう。山下和仁の人生、そのギターにかける情熱は、人を感動させずにはおかない。バッハの音楽に深くコミットメントして、人生すべてをこれにコミットメントし尽くすという熱気が伝わってくる。技巧的に圧倒されるだけでなく、音楽の賛嘆、厳しい演奏から生まれる美的オルギアがここにある。「これが人生のすべてなのだ」と言える地点に到達した、恐るべき演奏だ。私が尊敬してやまないギタリスト、山下和仁の最高傑作である。
[15]
Bondage Fruit
Bondage Fruit
MABOROSHI NO SEKAI 1994
現代日本のプログレッシヴ音楽集団、ボンテージ・フルーツのファースト・アルバム。これを最初に試聴したときは、あまりの凄さに切れてしまった。アフリカの始原的なリズムに、ボンテージ系の強力で倒錯した知性と肉体が突っ走っていくような興奮だ。おそらくこのバンドの技量は、作曲、編曲、演奏技術ともに、プロの中のプロと呼びうる最高水準にあるだろう。これ以上に強力なエネルギーをもつオルギアの空間を、私は知らない。原始の舞踏、空を飛行する少年、あらゆる音楽を知り尽くした人だけがもちうる笑い、身体の強度がもつ美の表現、痙攣する肉体に注ぎ込まれる知性――。このような表現をすれば、これは大変な音楽だということが分かっていただけるだろう。とにかく大音量で聴くべし。強力な青春を送りたい学生の必聴アイテムだ。
[16]
Blue Asia
Hotel Rechampur
King Record 2002
1960年代のインドネシアでは、スハルト大統領の下で西洋音楽の輸入が禁止されていた。そのおかげもあってこの国では、かなりユニークなポップス文化が発展したようである。インドネシアの各地方に伝わる伝統音楽をポップスとして発展させることが奨励されており、しかもそこに東南アジアのポップス文化とイスラム文化とが融合されて、独特の音楽が生まれている。このアルバムではそうした音源を混ぜ合わせながら、また音源を自由自在に変形して、ハイパー近代的なインドネシアン・サウンドを生み出している。近未来アジア系の、グルーヴィーなパーティ・サウンドだ。なおミキサーたちは日本人であり、これは現代ミキサー文化の一大成果ではないかと思う。音源をミックスしていくことから生まれた珠玉の芸術作品。いやはや、日本のミキサーたちの「耳」の進化には脱帽である。リミックスとは音楽上の考古学なのである。
[17]
Meredith Monk and Vocal Ensemble
Do You Be
ECM 1987
学生の時分にこのアルバムを聴いて、言葉と生活感覚の両方を失ってしまった。生活の中断。それほどの衝撃だった。メレディス・モンクのヴォーカル芸術、その最高傑作である。ペルーの暗いキリスト教中世文化の聖歌と、サティのように反復するピアノ、ジャングルの野生動物たちの叫び、そして「恐れ」と「嘆き」。まるで地球そのものが、遠い故郷となってしまった生物たちの、その記憶を歌いあげるかのような世界である。彼女のヴォーカルはときに神聖で、無邪気で、また野生の高貴さをもち、世俗の規範的世界を超越したところに自由な歩みをすすめる。野生の迫力が神聖なものとして立ち現れると、もうこれは祈るほかない。
[18]
Claude Helffer
Pierre Boulez, Trois Sonates pour Piano
Astrée-Auvidis 1986
現代音楽を代表するブーレーズのピアノ・ソナタ。緊張と弛緩、集中と散逸、複雑と単一、速度と平面、などなど、ピアノ音による抽象的表現の可能性を深く追求する。とくに重要なテーマとなっているのは「強度」そのものだ。演奏の美的強度によって、音が流れるすべての空間と時間を支配してしまうような凄みがある。炸裂する音、爆発する音、酔う音。不協和音のあらゆる複雑さの中で、一定の構成と秩序を生み出していく。ブーレーズの創造性は、狂気のメタ・レベルに秩序を発生させることにあるのだろう。安定した基盤がまったく存在しないというのに、音の不安定な連なりの中で、天上の空間が顔をのぞかせる。天井が立ちのぼる、あるいは映し出される、といった感じである。なぜそれほどまでに美を投射しうるのか。恐ろしい音楽である。
なお参考までに、ブーレーズの大学講義、『標柱:音楽の道しるべ』青土社、も挙げておきたい。
[19]
Teiji Furuhashi
Dumb Type 1985-1994
Foil Records 1996
日本の演劇シーンに確かな足跡を残してきた「ダム・タイプ」。そのリーダーであった古橋氏がエイズで亡くなるまでに作られた、主としてパフォーマンスのためのエレクトリック・サウンドである。これは侮れない。ダム・タイプの都会的で叙情的な感性は、私たちの平凡な日常生活イメージを一新するだけの魅力をもっているだろう。機械音や電子音に囲まれた私たちの生活から、それら一つ一つの音がその機能的な意味を離れて、宙に舞っていく。無機的で無意味な都会の空間は、実はこれほどまでに魅力的な感性を宿していたのであった。五曲目の「エンプティ・クエスト」は、そうした意味での空虚さが、実は探求に値する興奮を生み出すことを示している。思わず口ずさんでしまいたくなるリズムのベース・メロディも印象深い。また最後の曲、エイズに感染してから作られた作品「ラヴァーズ」は、死を予感させるリリシズムに満ちている。
[20]
Shlomo Mintz, Yefim Bronfman
Serge Prokofiev, Violin
Sonatas
Deutsche Grammophon 1988
ミンツの超絶なヴァイオリンと、ブロンフマンの切れまくるピアノ。超絶と狂気にみちた演奏だ。これは競演というよりも、これはひとつの闘争ではないだろうか。聴く側の身体がもつ感受性をすべて動員してしまうような、恐ろしく高揚した時間が、ここに流れている。高揚に継ぐ高揚、そして耽美的な情感がほとばしる。これこそ、偉大なプロコフィエフの芸術作品なのかもしれない。このヴァイオリン・ソナタは、私が学生の頃から聴いている愛聴盤の一つ。20世紀音楽芸術のひとつの到達点ではないか、とひそかに思っている。